初めて息子の運動会を観覧する+昔の思い出

先日日曜日は小学一年生の息子が通う小学校、に加えて保育園・中学校・高校を合わせた合同の運動会に行ってきました。元々は9/12 土曜日に行われる予定だったのが、雨天により翌日に延期。そのお陰か晴天に恵まれて素晴らしい運動会になりました。

9/13 日曜日は本来ならば、消防団員として7月の豪雨による行方不明者を捜索する活動に従事する予定だったとですが、この運動会において、PTA の「文化広報委員」として広報を作成するために写真を撮影する役目を引き受けていたのと、息子の小学校生活最初の運動会で更に開会式宣言を行なうということで断りました。親ならばそうするはず!

写真撮影の役目

最初は Pentax K-50 を使って写真撮影と同時に Galaxy S20 で動画撮影という二兎を追う方法をやったところ、どちらも中途半端な結果に終わる。K-50 の Tv (撮影モード)で肝心のシャッタースピードが変えられないという不調が発生し、息子のかけっこがブレブレで上手く撮れないという悪い出だし。これはあかん。

というわけで、動画撮影に使おうとしていた  EOS 70D を写真撮影に回す。こっちの方が連写も利くし、重量があるのを除けば色々と使いやすい。18 – 200 mm のズームレンズでいろんな場面も撮りやすい。あとは腕次第というとこですが…。

伝統芸能「棒踊り」

過疎地の運動会ということもあってか、伝統芸能も披露される。それが「棒踊り」というもので、じつはこれを見るのを楽しみにしていた。小学3年~6年生による披露だ。

というのも、俺が小学5年生の頃にこの「棒踊り」を始めて20歳を少し過ぎる辺りまでやっていた経験があるためだった。「葭牟田棒踊り」といい、大正時代に地域の青年達が薩摩示現流を元にした踊りを始めたといわれ、親世代(昭和20年代生まれ)もそれを受け継いでやっていた。ネットで検索すると鹿児島の各地で今も伝承される棒踊りが多く引っかかるので、おそらく鹿児島から段々と北の方に伝わっていったのだろう。

小学校低学年の頃は父親や近所のおっちゃん達が舞うのを見てきたが、自分も始めることになるとは思っていなかった。夏休みの朝のラジオ体操の後に練習をして、6年生になる頃には通っていた小学校の催事や市が開催する文化祭に出演するようになった。出演する直前には神社に踊りを奉納するのが習わしだった。

↑は32年前に小学校の行事か何かに父親と共に出演した時の写真。本来は袴を穿いて踊るけども、子供だったのと保存会が経費を捻出できなかったという事情で、子供の踊り手は祭りの法被を着て踊っていた。中学生になってようやく袴を穿くことが出来たときは、大人の階段を上った感じで嬉しかった覚えがあります。誰かのお下がりだったばってん。

余談ばってん、↑は俺の手元に残った数少ない幼少~少年期の写真の一つ。中2の時に家が放火されて殆ど燃えてしまった。

昔の思い出

この頃はウチを含む地域の人間の多くが百姓、つまり農業経営でその多くがイ草農家だった。八代市は全国一のイ草(畳表の原料)の産地で、当時は8,000軒を超える地元農家がイ草の栽培を営んでいたという。そして主にイ草はそのまま農家が自ら畳表に加工し、全国に出荷されてその経済的成功は飲食業を始めとした地域経済を潤していた。

機械が入らない角付近をバリカンでイ草を刈る。子供のころはコレのみで刈り取っていた。刈り取った後を何人も付いて行って、イ草を束ねていた。
刈り取ったイ草を束ねる前に短いイ草を振るい落とす。そのために先端付近を縛る。

↑の写真の人は石川淳二さんと言って、俺が三重にいたときに知り合った畳職人。八代から畳表を買い付けているということもあり、この時ウチのイ草刈りに遊びがてら来てくれた。

メチャメチャ面白くてスゴい人です。後に奥さんとなる方と二人で世界一周を成し遂げたり、フランス・イタリア・スイスを72時間で回る過酷なトレイルラン UTMB に出場したりと行動力のパラメータが振り切れとる。四日市市で外国人に日本語を教えるボランティア団体の代表もされてます。俺はそこで彼と知り合ったというわけ。当時バイトしていた飲み屋で働いていた女の子が誘ってくれた。

↓ から彼の一端が分かります

30年位前に大型のイ草刈り取り機が登場し、一気に省力化が実現した。

泥染め工程。これにより畳表らしい色になって耐久性も増す。
泥染めの後は一晩乾燥させる。乾燥したイ草は袋に入れて倉庫に保管。両親・祖父と共に作業。子供のころはこれに祖母が加わって早朝にやっていた。それから学校。
倉庫にイ草(この状態を“原草” -げんそう- という)を詰め込む。乾燥されたばかりの原草はまだ熱く、従って倉庫の中も暑い。かつては祖母が担っていた工程。

昔のイ草の刈り入れ作業は、まだ大型の機械が導入されておらずとても肉体的負荷の高いものだった。そのため、俺が子供のころは「イ草刈りばやり切れば一人前」と聞かされていた。イ草は6月後半~7月末に刈り入れて、その後10月には稲刈りがあった。稲刈りの後の「籾摺り」という工程ではムラの皆が集まって一緒に作業した。籾摺りのための大型の機械を共有していたためだ。

そしてそれが終わると作業をした家の座敷で打ち上げ。みんな大いに飲んで酔い、騒ぎ、仲を深めたり喧嘩をしたり。父親が近所の親友のおっちゃん(年上)と喧嘩して、泣かせていたのは今でも覚えている。大人も泣くことがあるのを知った。

しかしながら全体的におおらかな時代で、みんなが家族の一員かのような雰囲気が漂っていた。そんな中で葭牟田棒踊りを毎年踊って地域の一員として成長していった。

などということを思い出させてくれたのが、今回の棒踊りでした。というわけ。

全力疾走

なんとかセンスのない写真をバシャバシャと撮って、いよいよ最後の種目であるリレーに保護者チームとして参加する。100m の全力ダッシュだ。

全くスピード感がないですなw 誰とも競り合うこともなく、前後に誰もいなかったw この後で筋肉痛に苛まれたのは言うまでもない。これを書いている三日後でもまだ筋肉痛が残っとる始末。
髀肉之嘆。

新型コロナの影響で、運動会は正午で終了。そのまま会場の片づけを開始して、テントやら何もかもを撤去して解散。人吉まで行って家族でご飯を食べて帰った。

昔は昼食も運動会のハイライトの一つだったばってんね。家族だけでなく、近所の人たちと一緒になって食べた。よその料理が気になったり、その料理を交換し合ったり、男たちはビールを飲んだりと、運動会は単に子供たちが練習の成果を発表する場ではなかった。現在は子供の減少や核家族化の一般化等に伴い、昔の風景は見られなくなってきている。

さて、来週の文化広報委員会議までに運動会の写真・動画の編集・整理に明け暮れます。