Tribute to Pete Way

去る8/14、イギリスのロックバンド UFO の元メンバーであり創設メンバーの一人である Pete Way が交通事故による致命傷が原因で死去。享年69。

俺の一番好きなバンドでプレイし、俺自身ものすごく影響を受けたロッカーでした。追悼の意味も込めて、彼を振り返ってみたいと思います。

目次

UFO創立~最初期

1951年にロンドンで Peter Frederic Way として生まれる。

彼はベーシストとしての活動をプロのステューディオミュージシャンとして開始。多くの音楽家とプレイしたという記述がありますが、具体的なグループ名やレコードについては不詳。

1968年にロンドンで高校の同級生ら、Phil Mogg, Andy Parker, Mick Bolton らとバンドを結成。当初のバンド名は “Hocus Pocus” だったが、翌年10月に “UFO” と改名し、Beacon Records と契約して1970年に 1st アルバムの “UFO 1″、1971年に 2nd の “Flying” / “UFO 2 (One Hour Space Rock) ” を発表。

 

ここで聴かれる彼らのサウンドは2ndの副題通り “Space Rock” と形容されており、ブルースを気怠くしたサイケデリックロックとでもいうようなもので、特に目新しくもなかったが、1st に収録されていた Eddie Cochran のカヴァー “C’mon Everybody” が日本とドイツでヒット。ついには日本公演が実現。

本来は Three Dog Night の前座という立場であったものの、彼らの直前のキャンセルにより UFO が日比谷野外音楽堂で単独公演をすることに。しかしながら Pete Way が演奏中に指をケガするという事態が起こり、予定を短縮して終了。

この模様は “U.F.O. Landed Japan” として発表される。バンド未公認のままで発売されたらしい。バンドとしてはこの日の演奏の出来に不満があったからとのこと。俺は↑のジャケットでの LP を持ってます。モンタナ州のミズーラという小さな町のレコード屋にあった。

この頃のピートのプレイは基本的に単調で、ルート音とその2度下もしくは2度・3度上とのループを弾いてグルーヴ感を出すのが主だった。

ギタリストの獲得と
音楽性の変化

日独での人気はあったものの、肝心の英米での人気には繋がらず、しかも創設メンバーの Mick Bolton が失踪し、それから Larry Wallis, Bernie Marsden らが加入するも安定せず。そこで発掘したのがドイツのバンド Scorpions にいた Michael Schenker でした。

UFO は Michael を引き抜き、彼のアイディアを活かしてより普遍的なロック寄りの音楽性で作られたアルバム “Phenomenon” を1974年に発表。そこに収められた “Rock Bottom” や “Doctor Doctor” は現在に至るまでバンドの代表曲としてプレイされることになる。

1. Oh My  2. Crystal Light  3. Doctor Doctor  4. Space Child  5. Rock Bottom  6. Too Young To Know  7. Time On My Hands  8. Built For Comfort  9. Queen Of The Deep

 

おそらく1973年にドイツで収録された↑の映像は Rock Bottom の初期型というべきもので、歌詞が異なる。ギターソロも短い。

しかしながらピートのベースラインに変化が現れ始める。E → D のループに加えて、Gまで下降するという Deep Purple で言えば “Strombringer”のリフと同じリックがここに生まれた。つまり、後に Yngwie Malmsteen が生み出した名曲 “Rising Force” のリフの原型ともいえる。Stormbringer は1974年後半の発表なので、俺の知る限りではピートがこの定番リックの先駆者となる。

現代に至ってもこの名曲はカヴァーされているが、大半がピートのベースラインを無視しているのが悲しい。

Pete のファッション

そして注目は縦じまのトラウザーズ(いわゆる「ズボン」の英英語。米語では「パンツ」)だ。下の動画(1974年)ではなぜか履いていないが、これより後に愛機となる Gibson Thunderbird と共にピートの代表的なステージ衣装となっていく。

当時の観念ではベーシストは片隅で黙々と弾くというのが常道だったのが、ピートは常に所狭しと動き回っている。基本的にシンプルなプレイに徹しているから出来ることではあるがw

ともかく、ピートはステージで激しく動き回ってロックし、観客をロックするというスタイルで最初のベーシストの一人となり、後続のロッカー達に多大な影響を与えることになった。

そしてそれは80年代に入って Iron Maiden の Steve Harris や Mötley Crüe の Nikki Sixx 等に模倣・継承されていくことになる。二人ともピートからの影響を公言している。

Nikki Sixx / Mötley Crüe
Steve Harris / Iron Maiden

Def Leppard の Rick Savage によれば、80年代には多くのベーシストがピートに憧れて/影響されてこの縦縞を履いていたという。

“And I think everybody else did. If you look at the bass players in those days, everybody had a pair of striped trousers on them. I did, Steve Harris did, Brian Wheat from Tesla still does in this year 1992.”
– Rick Savage / Def Leppard

そして全盛期へ

UFOは毎年アルバムを発表。それにつれて英米での人気が高まっていく。(日本でも引き続き一部では人気を博していたらしい)

Force It (1975)

前作 Phenomenon からアルバムカヴァーのデザインを Hipgnosis が担当。Pink Floyd や Black Sabbath での仕事が特に知られるアート集団だ。特にこの Force It アルバムから一見意味不明なものになっていく。↑では、じつは男装した女性が女装した男性に風呂場でキスしているという構図になっている。

ピートのプレイはこれまで指弾きが主体だったが、ピック弾きも登場する。曲によってはたぶん場面に応じて両方使用していると思う。マイケルのギターサウンドが歪みを増し、それに対抗するかのような変化だろう。

スタジオ版では割とストレートなプレイだが、後のライヴ版になると抒情的なフレーズを挟んでくるようになる。

↑の動画には Pete Way の要素がふんだんに盛り込まれていて大好き。高校生の頃には毎晩のようにこれを見ていた時期があった。ピートを始めとしてバンド全体がかっこよかった。

No Heavy Petting (1976)

No Heavy Petting (1976)

このアルバムでUFO は Danny Peyronel を専属キーボーディストとして加えるが、Michael が Danny のホンキートンク風のプレイを快く思っておらず、すぐに解雇されることになる。

↑の曲なんかには問題なく合っていたものの、Rock Bottom なんかでやられた場合には場違いだろ…くらいに合っていなかった。

YouTubeでは見つけることが出来なかったが、この時期のライヴ録音が海賊盤で販売されており (“Live at Record Plant, Sausilito, USA 1975″)、俺は大学生の頃に当時熊本の大手スーパーマーケットだったニコニコ堂のワゴン売りで手に入れた。奇跡的な出会いだった。

このアルバムでマイケルのギターはさらに歪みを増し、現在に至るサウンドを確立したといって良い。”On With the Action” におけるプレイはマイケルの真骨頂の一つ。

Lights Out (1977)

そして遂に“名盤”と言われる “Lights Out” の登場!これで UFO は米国ビルボードの23位を記録して念願のアメリカ市場でのヒットを成し遂げた。

キーボードに Paul Raymond (R.I.P.) が加入。曲や構成に応じてギターも弾ける彼の加入は、以降の UFO や MSG の音楽性に多大な影響を与えた。

1曲目の ”Too Hot To Handle” は邦題で「燃えたぎるギター」と名付けられているが、これはこの頃のバンド全体を表した曲だと思う。(=触れないほどに熱い)

基本的な構成は多分ピートが作っている。そしてギターリフと進行は同じではあるものの、ギターのようにハネた感じを出さずにドラムに合わせたグルーヴで曲を支えているところが素晴らしい。並のベーシストなら、ギターと同じラインを弾くところだ。 また、スタッカートやスライドでアクセントを付けているところもカッコいい。ライヴ映像もかなりイイ!

3曲目の “Try Me” で遂に UFO はピアノとストリングスを入れたバラードを作り出す。Paul Raymond の加入によって生まれた化学反応だ。Phil Mogg の魂の歌唱の後にMichael の素晴らしい泣きのギターソロが曲を更なる高次元に昇華させる。理想的なギターソロですよ、マジで。泣ける。余談ですが、俺自身この曲のギターソロ(+ 歌唱)をカヴァーして YouTube に上げています。良かったら視聴をどうぞ。

4曲目は永久の名曲 “Lights Out” 。ここで初めて UFO はアルバムタイトルと同一名の曲を入れてくる。当時、パンクロックが英国を席巻して、旧来のハードロックが勢いを失くしてきたことを歌った曲だ。1994年に UFO が再結成した時のインタヴューでピートが「ベースドラムと溶け合ったプレイが理想なんだ」と語っていたが、その真髄がこの曲のリフに現れている。

7曲目の “Electric Phase” は1998年の再結成 UFO によってもプレイされていた。日本公演では大阪~名古屋~東京とツアーしており、そのうちの名古屋と東京に赴いて、この曲がプレイされるのを見た。

そして8曲目の “Love To Love” 。”Try Me” と同じくピアノとストリングスによるバラードだが、こちらは“ポリリズム”という「複数の拍子が同時進行する音楽」を取り入れた曲。キーボードと他の楽器の拍子が違って進行する。が、それらが噛み合って非常に美しい。Michael による魂を振り絞ったかのようなこのギターソロに影響された人は世界中に星の数ほどいるだろう。

Obsession (1978)

初期における Michael Schenker とのスタジオ盤としては最後となったアルバム。ここでのサウンドはさらに洗練され、アメリカ市場を意識したものとなった。また、バンドのロゴがまるで“空飛ぶ円盤”を意識したような意匠になり、これ以降現在に至るまでこのロゴが用いられることになる。

“Pack It Up” のように激しくドライヴする曲から、”Cherry” のように甘く囁くような曲、そしてマイケル自身の縦笛演奏による “Arbory Hill” 、そして1998年の東京公演一日目最期の曲となってしまった “One More for the Rodeo”…。しかし、改めて聴いてみればそれほどアメリカ向けの曲は入ってないですな。

そういえば、”Cherry” はアメリカの TV ドラマ “Prison Break” Season 4 EP 4 の23:50辺り (Netflix) で使用されていた。 Sara Tancredi がパブにて葛藤する場面。

個人的にはリズムプレイにおけるギターサウンドがあまり好きではないが(JC-120に繋いでペダルで歪ませたかのような音)、なぜかリードでは高音の出が素晴らしく、それが上手く作用した泣きのソロが聴かれる。

しかしながら、このアルバムを以てマイケルが失踪→脱退。リーダーであり堅物・呑兵衛で生粋の英国人であるフィルとの確執が原因と言われる。UFO はとにかく酒豪で有名だった。

その中でもピートは酒に加えて薬物の乱用も凄まじく、後に Ozzy Osbourne をして「俺は“マッドマン”と呼ばれているが、ピートに比べれば格下だ。」と言わしめたほど。ピートは後に UFO を脱退して短期間だがオジーのツアーに参加している。たぶんその際にピートの“ご乱行”を見たのだろう。

Pete Way with Ozzy Osbourne on stage

Ozzy と言えば “Madman” とあだ名され、業界随一の「狂人」として知られる。ヘロインの乱用で一度死亡した(すぐに自分で蘇生) Nikki Sixx でさえ「オレはオジーが蟻をストローで鼻吸引しているのを見て、ヤツには敵わんと思った」と言っているのだから、そのオジーに「敵わん」と言わしめたピートが最強・最狂なのではないだろうか。

Strangers In The Night (1979)

前作・前々作でアメリカ市場を制して成功を手に入れた UFO は、遂にライヴアルバムを発売。しかも2枚組(当時)。

“Would you welcome from England. U, F, O !!” の紹介で始まるこの記録は、70年代最高のライヴアルバムの一つとして名高い。Def Leppard の Rick Savage (再登場)がこのアルバムについて良い文句を残している。

「それから何と言ってもライヴアルバムだ。UFOの凄いのは、いくつもアルバムを出そうが、各アルバムに3・4曲は“スゲぇ”曲が入ってるところだ。それらがライヴアルバムに収められてるんだから、”UFO の最強ベスト盤” みたいなもんだよ。」

まさしくその通りで、1974 – 1978年に作られた5アルバムから最高の部分を収めてある。もちろん、「アレが入っていない」「アレこそが UFO の神髄なのに」という意見は出て当然だろうが、ライヴショウ向けの選曲としては正に最高のものばかり。

Doctor Doctor

特筆すべきはいくつもあるが、まずは “Doctor Doctor” のイントロにおける泣きのギターサウンドとそれに絡むピートの抒情性を高めるベースラインだ。高校生の時にこの曲を聴いて、すっかり惚れこんでしまった。Michael Schenker のベスト盤 “Anthology” に収録されていたもので、スタジオ盤を聴いたのはもっと後のことだった。フィルのこなれた歌い方や、アンディの安定したドラミングも素晴らしい。

Love To Love

スタジオ盤であれだけの泣きのギターを見せておきながら、ここではそれをはるかに上回ってしまったマイケル。いくら薬でガンギマリになっていたとはいえ、ここまでの凄まじい泣きのプレイはどんなギタリストにも真似が出来ない。今に至るまで、このような音が出せる人は存在しなかった。

Rock Bottom

UFO は最高の曲をいくつも生み出してきたが、やはりこの曲が最高中の最高。”Anthology” の1曲目でこのリフが鳴った瞬間に完全にヤラれた。頭も心も持って行かれた。これが最高のギターサウンドによるギターリフなのだと思った。

そのライヴ版がここにある。リフの弾き方やバンド全体のグルーヴはスタジオ盤と違うので、正直に言って最初はとっつきにくかったが、大幅に構成を変更されたギターソロは別次元の素晴らしさ。この構成が後々の MSG におけるこの曲の基本構成となる。

UFO の衰退とPete の脱退

フィルとの軋轢・成功に伴う過酷なツアー、そこから逃避するかのように薬物の乱用等で憔悴しきったマイケルが脱退。バンドは Paul “Tonka” Chapman (R.I.P.) を加入させて新たな音楽性を以てアルバムを発表する。

実は、これ以降のアルバムはちゃんと聴いていないのであまり感想を述べることが出来ない。いくつかの代表曲はもちろん聴いている。中には良曲もあって UFO らしさは失われていないのだったが、バンドはよりストレートなロックを指向し、さらにポップさを前面に押し出すようになり、それを嫌ったピートは遂にバンドを脱退。

時代は正に NWOBHM (New Wave Of British Heavy Metal) が爆発しようとする時で、UFO はそれらのバンドに影響を与える存在だったが、ここにきて勢いが減速するのだった。

No Place To Run (1980)

Paul Chapman が加入して初のアルバム。80年代の幕開けと共に発売。やはりギタリストの交代によるサウンドの変化は著しく、より直球のロックになってヘヴィさが幾分後退している。

チャップマンは決して下手なギタリストではないが、やはり前任のマイケルによる閃きに溢れたプレイに比べると見劣りする。それに応じてバンドの楽曲も弱まったという感想だ。しかしながら、↓の映像で見られるようにマイケル時代では決して見られなかったプレイが出来るのはチャップマンの強みだった。アクースティックギターでのプレイは非常に素晴らしい。

この頃のピートのファッションは70年代のベルボトム流行から抜け出して、上半身裸もしくは横縞のシャツにスリムのデニムをサスペンダーで吊っているという、シンプルかつロックな恰好になった。現代的な価値観でも十分にカッコよかろ、これ。

↑の写真を見て気づいたのが Marshall アンプのセッティング。これを見る限りではどうやら“カスケード接続”でもってアンプ同士を繋いでいたようだ。これによって、幾つものアンプを同時に鳴らすことが出来る。

まあ、PA 技術の発展と共に必要以上の大音量をアンプから直接出力する必要性がなくなったので、現代では全く見られなくなったモノではあるが、ロマン溢れる設定だ。

ちなみに、現代ではアンプが複数台設置されていても実際に鳴っているのは1台だけという場合が殆ど。予備としてもう1台も鳴らせるようにはしてあるだろうけども。

ちなみに、余談ではあるが俺も近頃ようやく上記と同様の試みを行なった。時機が来たら全開で鳴らしてみたいと思っとる。右の1987 の INPUTS から左の 1959 の INPUTS へとギターケーブルでカスケード接続し、1987 からは上下のスピーカーに、1959 からは上部のスピーカーに出力してある。残念ながら左下のスピーカーは鳴らない。

この頃まではたぶんベースを Marshall で鳴らしている。90年代になると Ampeg に代えられているが。

The Wild, the Willing and the Innocent

音楽性は基本的に前作を引き継いでいるという印象。よりハーモニーを多用して聴きやすくさせた曲が増えた。Long Gone が良かった。しかしながら、どうも他の曲が弱く長いタイトルとは裏腹にどうにも印象の薄いアルバム。

ではあるがしかし!最後を飾る曲 “Profession of Violence” はポール時代で最も素晴らしく美しい。ポールのギターは全編を通じて素朴で単純な A マイナー(部分的に A ハーモニックマイナー)で書かれているが、最後を飾るギターソロは無駄を省いて必要な音のみで抒情感を生み出している。Marshall サウンドの良さを引き出した素晴らしい音色で、ともすれば弾きすぎてしまいがちな場面でも上手くこらえた。

フィルの歌唱も歌詞も文句のつけようがない。この頃からフィルの歌唱からはメロディが消えていく傾向にあるが、マイケル時代と比べても全く遜色のない儚さと憂いに満ちた名曲だ。

Mechanix (1982)

残念ながらアルバムカヴァーのデザインに Hipgnosis が参加しておらず、まるでソ連のプロパガンダ用ポスターのような出来になっている。

が!ポール時代における傑作と呼べる仕上がりになった。前作から加入した Neil Carter  (Kb/Gt) の影響が上手く作用したのか、スッキリした直線的なロックを演奏しながらも、まるでイギリスの工業地帯を舞台にしたかのような憂いを帯びた雰囲気を醸し出している。

↑の映像で見られるように、弦楽器隊が同じメーカー・同じ形のギターで統一しとります。ピートの格好も落ち着いたものに移り変わる。

意外にも、このアルバムが UFO の英国における最大のヒットだと言われている。米国では売れなかっただろう…。しかしながらピートはこのアルバムを以て UFO と決別する。バンドのポップ路線化に異を唱えてのことと言われているが…。

ちなみに、ピート脱退後の UFO のツアーは 当時 TALAS に在籍していた Billy Sheehan がサポートした。1979年には Michael Schenker のデモ制作にも参加しており、以前からバンドと何らかの繋がりがあったとみられる。

ピート脱退後の UFO はさらに音楽性と見た目を変化させた…というか“80年代”に迎合した。Atomik Tommy M のギターはちょっと落ち着きがなく忙しい。ガチャついとる。

FASTWAY 結成

Motörhead を脱退した Eddie “Fast” Clarke とそれぞれの名前から取ったバンド名で始動。ところが、ピートにはレコード会社の Chrysalis との残った契約から逃れることが出来ず、一音も録音することなく脱退。なんだったんだw

With Ozzy Osbourne

前述の通りクリサリスとの契約に縛られており、それを解消するためにオジーのツアーに参加。イギリスでの数公演だけでしたが、オジーをして「ピートに比べれば格下だ」と思わせるだけの乱行をやるだけやって契約履行。

どうやらその模様を収録した海賊版↓があるらしいですが、YouTube 上では見つからず。どうやらオジーの要望なのか黒一色で統一された衣装とベース。

WAYSTED 結成

オジーとのツアーを終えて、ようやく自身のバンドである “WAYSTED” を結成。”wasted” (= 無駄な・役に立たない・酔っぱらった・麻薬中毒の、という意味で同じ発音)を自身の名前でモジったもの。

1st アルバムの “Vices” が1983年に発売され、以降メンバーの脱退・再加入などを繰り返しながら1987年に解散。その中には UFO の旧メンバーである Paul Chapman, Paul Raymond, Andy Parker らも含まれている。

↑Andy Parker 参加時。まだ普通のロッカー達といった出で立ち。

↑Paul Chapman 在籍時。Andy はいなくなり、すっかり80年代風の服装と髪型になっている。

1986年発表の “Save Your Prayers” が米国ビルボードで186位を記録したのが最大のヒット。↓の曲 “Heaven Tonight” が時代を反映した曲調でウケたんだろうか。ギターには時代を反映した髪型のチャップマンが見える。ただ、ギターソロには中々センスの良さが光る。

ドラムを叩くポージングも、正にあの時代の典型的なモノ。UFO 脱退時の理由が「バンドのコマーシャルな方向性に異を唱えた」だったのが、すっかり時代に染まったのは音楽業界で生き残っていくために仕方のなかったことだろうか…。

UFO への復帰

1988 – 1989年の短期間の復帰を経て、1991年に本格的に古巣 UFO への復帰を果たす。そこで “High Stakes & Dangerous Men” を発表し、かなり久しぶりの日本公演も行なう。

High Stakes & Dangerous Men (1992)

その模様は “Lights Out in Tokyo” と題されたライヴアルバムとして発売。高校生の頃に何も知らずに買ったものの、余り気に入らずに数回聴いたっきり。

新加入の Laurence Archer は当時の最先端のテクニックを身に着けたギタリストで、じつは結構な Michael Schenker フリークだったという話だが、どうにも加工され過ぎたサウンドが気になって俺の中でお蔵入りに。

今振り返って聴いてみると、Phil Mogg が歌えばすなわち UFO !!という内容で、いつもの湿りきったイギリス男の歌声を旧友と新加入のメンバーたちがサポートするという80年代以降のいつもの UFO 以外の何物でもない。

ピートの使用アンプはここから Marshall ではなくなっている。また、ベースも白の Thunderbird だが、たぶん Epiphone のものに替わっているいるものと思われる。その理由としては、「音がより太い」のと「Gibson をツアーに持って行って盗まれるのがイヤ」ということらしい。

Schenker を含めた
黄金期での再結成

1993年末、いよいよ以前から噂になっていた黄金期(1976 – 1978)ラインナップでの再結成が実現する。上記の編成での UFO 再結成も興行的に上手くいかず、マイケルの McSG も終わりを迎えていたため、ようやくその機会が訪れたというところ。

そして1994年6月に日本公演が行われる。当時はインターネットなど普及しておらず、その情報は熊本にあっては一般のファンにはすぐに手に入るものではなかった。しかしながら誰かから偶然聞いたか何かでどうしても見に行きたくなった18歳の俺は(産経新聞かなにかに掲載されていたという記憶がある)、チケットも持たずに夜行バスに飛び乗って大阪に向かった。若かったねw

1994年6月18日土曜日、初めて経験する大都市。降り立った場所は阿倍野だった。周りは日雇いの仕事を求めるオッチャン達と、それを捌く、見るからにケバい恰好でものすごく分厚い千円札束を握りしめて歩き回る手配師の兄ちゃん達とで溢れており、未だに忘れられない衝撃的な光景が広がっていた。尤も当時はその人たちが何なのかが分からずに、ただ怯えとっただけだったばってん…。

そして純粋な田舎者の俺は電車などの公共交通機関に乗る方法も分からなかったため、開催地のサンケイホールまで歩いて行った。道も分からなかったので、おそらく数時間は掛かったと思う。梅雨時期ということもあって暑かった。

会場と思しき場所にはすでに先着者がいた。自前の Flying V を持った高校生と東京から来た女性2人組だった。その3人ともチケットを持っていない「ダフ屋待ち」という。「さすが都会は違う。ハードロックバンドを好きな女性がいるとは」という感想を持ちながらも、綺麗な女性だったためはっきり言って一瞬にしてホの字だった。純粋だった俺。

しかしこの女性2人が UFO のスタッフと面識があるようで、何かの会話をしていた。けれども、どうやら英語は上手く話せないようでそこへすかさず英語には既に少し自信があった俺が割り込んで通訳!思えばこれが初めての通訳業務ということになる。

その交渉の甲斐あって女性らはチケットなしで入れてもらえることに。いやいや、俺は!?と粘ったら俺も入れてもらえることになりましたwww しかもバックステージにも!うっひょー!ラッキーーーー!!!若気が至って良かった!!!

で、そのまま会場前で待っているとメンバーがタクシーに乗って到着。フィル、マイケルはどうやらそれぞれ一台の車で来たものの、残りの三人、Pete Way, Andy Parker, Paul Raymond は一台に詰め込まれて来た。どうやらこれが当時のバンド内での力関係ということらしい。

そして待ちに待った UFO のライヴショウ!”After Show” と書かれたパスを持って誇らしげに入場し、会場の後ろの方で見た。といっても、ビルの中にある大きくない会場だったので思ったより近くで見えた。当時は視力もものすごく良かったし。(アフリカの部族並みだったと自負している)

ただ、内容はほとんど覚えとりません。興奮しすぎとったためと思われる。冒頭に Micahel Schenker が自身のアクースティックギターによるアルバム Thank You から前座として2曲やったのはハッキリ覚えとる。その感動のあまり、会場でそのアルバムを購入。

さあ、そしてお待ちかねの楽屋でのメンバーとの対面!ところが、あまり話せませんでした。英語に少々自信があったといってもせいぜい90年代の高校生レベルの話。さらに緊張が加わって、ピートと話をしていないと思う。俺のお陰で入ることが出来た高校生は無事に自身のギターにサインをもらっていた。

もし、このブログを見る機会があったら連絡してくれ。この後連絡先をもらったものの、熊本に帰った際に紛失してしまった。

Michael と Phil はずっと不在。マイケルはグルーピーによるマッサージを受けていたという話。当時の内縁の奥さん兼マネージャー Bella Piper さんは裏方としてせっせと働いているというのに…。彼女からアイスクリームをもらった。

どうやらフィルは既に帰ったらしい。そしたらもうマイケルが出てくるのを待つしかない!その間、スタッフと話しながら時間をつぶす。↓の写真の左にいるのは長年マイケルのギターテクを務めていた Leon Lawson 。この後に彼の白いFlying V(通称 “No. 4”) はマイケルの手に渡ることになる。そしてついに返されることはなかった…。

辛抱強く待った末に、ようやくマイケルが出てきた!慌てて撮った写真がこれ↓ フラッシュが手前の何かに反射して、肝心のマイケルに当たっていないのであります。悲しいのであります。
現代だったら Photoshop で暗い所を持ち上げて修正出来るのに。デジタル化が進む前は、何事も一瞬一瞬が命だった。

そんな俺を尻目にマイケルは出口へ。そして出待ちをしていたファンたちにサインを…。ずっと待っていた俺たちは…。

何はともあれ、良い思い出になった。この後先述の高校生と東京の女性2人組と共に野外で夜を明かす。何も出来ないほろ苦い思い出になった。

復活作 Walk on Water

この後、UFOは期待の復活作である “Walk on Water”を1995年に発表。

プロデューサーは黄金期の UFO サウンドを作り出した Ron Nevison 、80年代に多くのヒットアルバムを送り出した名プロデューサーとして知られる。しかしながら、ここで聴かれるサウンドはそんなに派手にはなっていない。

マイケルの機材も先述の新しい Flying V(”No. 4″)に加えて、Marshall も JCM 800 に替わった。レイモンドのキーボードも地味。アンディのプレイはどうも長年のブランクを感じさせる。

そしてピートによる作曲は7曲目の “Knock Knock”を待つことになる。以前の UFO で見られた「繰り返し曲名」がここにも復活。Doctor Doctor とか Shoot Shoot みたいなやつね。

というように内容としては特筆するものはあまりなかったように聞こえるが、往年のメンバーによる作品というだけでも当時は聴きまくる価値のあるものだったし、今改めて聴いても随所に良い場面が出てくるのがやはり UFO だと思う。

改めてアルバムカヴァーをよく見ると、実際に現場で全員集合しての写真ではないことが分かる。マイケルの足がピートの足の上に乗っとるし、フィルの足はマイケルの足を踏んどる。当時は気づかんだったなー。

この直後にアンディが脱退するも、Simon Wright(元DIO, AC/DC)を迎えて活動を継続。その当時の映像が残っている。

正直に言って、サイモンのプレイは好きではない。あまりにもタイトでリズムが正確過ぎる。ロックな感じがない。

一方、ピートはまるで昔に戻ったかのようにステージ上を所狭しと駆け回り、昔以上にマイケルに絡む場面が見られる。以前からではあるが、ピートとマイケルの関係はずっと良好に保たれていた。フィルとマイケルの間に入ってバンド内の力関係のバランスを取っていたのはピートかもしれない。

MOGG/WAY としての活動

予想されていたこととはいえ、マイケルが脱退。どうやらマイケルは以前 Thank You アルバムでレコード会社を通さずに自ら手売りした経験を UFO にも実践するように提案したが、それを蹴られてから不仲が再燃したとか。

この時の再結成でマイケルが参加する条件の中に「UFO というバンドの権利はフィルとマイケルで共有する」というものがあり、マイケルの脱退により UFO 名義での活動が出来なくなってしまったのだった。

そこでフィルとピートの2人は “MOGG/WAY” という名義での活動を開始する。1st アルバムは “The Edge of the World” と題され、新進気鋭のギタリスト George Bellas とヴェテランドラマーの Aynsley Dunbar を迎えて発表。

The Edge of the World (1997)

ロゴは UFO のそれに似せて作ってあることから、これは飽くまで UFO の名義が使用できないだけの実質 UFO であることのアピールだろう。

Chocolate Box (1999)

そしてマイケルが新生 MSG の活動を続ける中で MOGG/WAY は2nd アルバムを制作。ギターに Jeff Kollman を迎え、ドラムスには Simon Wright、キーボードに Paul Raymond と、UFO の形態に近づいた編成。

ここで聴かれる楽曲はジェフの影響が多大ではあるものの、各自素晴らしいプレイを披露しており、ピートもチューニングを全音落として新境地のプレイに挑んでいる。

ジェフの速弾きも伝統的なブリティッシュロックにハマっており、ハッキリ言って、再結成後の UFO のアルバムの中で最高を争う内容じゃないのかと思う。

Schenker の再復帰と
再脱退と再復帰と再脱退

「ビジネス上の問題が片付いた」とのことでマイケルが1997年末に復帰してツアーを再開。ところが出てきた彼の出で立ちはまるで“ミスターマリック”のようだった…。

そして待望されていた日本公演が1998年4月に組まれることになる。MSG の再結成来日公演を見ることが出来なかった俺は、今度こそはと張り切って準備に勤しむ。

この頃の UFO のショウを捉えた映像が海賊盤で当時発売されていて、後に購入した。しかし現在では YouTube などで無料にて視聴出来るのだ!なんという時代の変化。

大阪公演では小さな小屋で見ることが出来た。今書きながら思い出したが、このショウの前日には Yngwie Malmsteen の大阪公演を観ていた。ふんで、今回も前回と同様に歩いて大阪厚生年金会館まで行った。しかもプラットフォームブーツを履いて。いわゆる“ロンドンブーツ”ですよ。

二日連続でライヴショウを観るということもあって、今回はバンドのサウンドにも着目することが出来た。どうにもマイケルのサウンドがペラペラなのが気になった。Rock Bottom でのギターソロなんか、往年のウォームな音はどこへ?そして泣きのプレイは?と言いたくなるような内容と覚えている。

しかしながらやはり最も大好きなバンドであるから、引き続き東京公演まで追いかけて観に行った。三日連続で中野サンプラザでの公演が組まれていたが、さすがに初日分だけチケットを買った。土曜の分は売り切れだったしね。

これが自分で来る初めての東京で、新幹線で移動したので時間が余っていた。そこで見る全てのものの物量に圧倒された。駅内を歩く人々の速さといったら衝撃的だった。

そこで早くも会場のある中野区へ移動。住宅地の中野区は幾分過ごしやすかった。とはいえそれでも何もかもが過多だったので、図書館に行ったりして時間を潰した。

そしていよいよ東京公演初日の開始!すでに大阪で観た上に椅子付きの“会館”ということもあり、落ち着いて観ていた。大阪では首を振りまくっていたのだが。

事件は7曲目の “One More for the Rodeo” が終わった後に起こった。マイケルがマイクに向かってぼそぼそと喋り始めた。「おっ、珍しく何か喋ってるぞ?」と思ったら、その内容は “Sorry….. I can’t play… any more…” というもので、喋り終えるとギター (“No. 4”) を床に叩きつけてステージを去ってしまった。ギターは無残にも破壊されていた。

この模様は MD で録音しており、もしかしたらまだどこかに眠っているかもしれない。

遂には残りのメンバーも引っ込んでしまい、観客は「マイケルー!マイケルー!」と連呼するが誰も出てこない。結局はショウの中止が宣言されてしまった。すると歓声のうち半分くらいは「カネ返せ!カネ返せ!」に変わっていた。

会場を出たあと、会場裏で出待ちをしていたらフィルとピートが出てきた。初めて彼らと会話らしきものが出来て、ラッキーだと思った。フィルは何かの乗り物に乗っておどける仕草を見せたりと、ファンを安心させる心遣いを見せてくれた。状況については「俺らもよく分からん」ということだった。

そしてこれが俺にとってピート・ウェイを生で見た最後の経験になった。

結局マイケルは再び UFO を脱退して Joe Satriani, Uli Jon Roth らと “G3 Tour” を行なった。しかしその後またすぐに UFO に復帰し、新しいアルバムを制作することになる。

Covenant (2000)

日本盤は紙ジャケットでの2枚組で発売。2枚目は “Official Bootleg” と銘打たれた1995年のライヴ音源。

本編は、個人的には前作 “Walk on Water” よりも思い入れはある。がしかし、最初はとっつきの悪いアルバムだと感じた。どうにもフィルの歌うメロディが弱くなっているためだった。

当時の俺の俺の状況下では音楽を聴く機会は結構あり、特に車の中で聴くのは最高だった。お気に入りの曲は2, 4, 5, 9, 11と全体の半数に迫る。

特に9曲目の “Serenade” はよく聴いた。「ベースドラムに合わせる」というピートの持ち味が存分に出ている美しい曲に仕上がっている。歌詞の内容もフィルらしさが滲み出ている。他の男には書けんよ、こぎゃん歌詞は。

Sharks (2002)

ここから UFO の新作を買わなくなった。生活環境の変化もあったりしたが、やはりバンドの質が落ちたのを実感していたというのが大きい。

マイケルが無精ひげに短パンという信じられない衣装でステージに上がっている。プレイもサウンドも最悪。一方のピートはデビューから30年を経ても相変わらずのロックンローラー然とした動きを見せてくれる。

もう一人のギターは、後に B’z でベースを弾くことになる Barry Sparks。彼は UFO の大ファンで、MSG にベーシストとして入ったのを機に UFO のサポートを務めるようにもなる。Phil Mogg 曰く「曲の構成とか分からなくなったらバリーに訊け。奴なら何でも知っている。」

このアルバムを最期に Michael Schenker は完全に UFO と袂を分かつ。バンドの権利も Phil Mogg に譲渡して自身の活動に専念していく。というか、ここからしばらく全財産を失ったりするなど人生のどん底を彷徨う。まさに Rock Bottom。

バンドは新たに Vinnie Moore と Jason Bonham を迎え入れて、さらにはマイケルと確執のあったと言われる Paul Raymond も復帰した。

晩年のUFOと病気

新たなメンバーで新作を発表し続ける UFO。

You Are Here (2004)

このラインナップでは、過去の名作を映像に残している。

0:40でのピートの佇まいが彼の“らしさ”を醸し出しているw

The Monkey Puzzle (2006)

このアルバムからは Andy Parker が復帰。家業の建設業を継いでいたという話だったが復帰が実現。これ以降現在に至るまで在籍することになる。

しかしこのアルバム発表後にピートがバンドを離れる。健康状態の深刻な悪化で、精力的にツアーやアルバム制作を続けるバンドの活動についていけなくなってしまった。“最狂”のロックンローラーも、長年に渡るロックンロールライフの中で身体・精神の衰えが見られるようになった。

これ以降、ピートは UFO に戻ることはなかった。

Michael Schenker との活動

とはいっても、治療の合間に音楽活動は続けていくのであった。バンドを離れたとは言ってもマイケルとの関係は良好だったし、度々合流してはアルバムの制作に繋がる時もあった。

The Plot

ピートのやりたい音楽(伝統的なロックンロール)にマイケルが付き合ったかのようなアルバム。ドラムスに Jeff Martin を迎えたトリオ編成。ピートが歌っている。

Tales of Rock ‘n’ Roll (2006)

私生活・音楽活動共に荒れまくりだった Michael Schenker 復活の先駆けとなったアルバム。まあ、彼の本当の復活まではもう少し時間が掛かるわけですが。

過去に MSG に所属していた伝説的なヴォーカリスト達をゲストに迎えて制作。こうしてみると、当時 MSG にいた Jari Tiura は歴代のメンバーに比べるとはるかに見劣りがする。

この時期には三重に住んでいたため、名古屋公演を観に行った。残念ながらアルバムでベースを弾いたピートは参加していなかった。それもあってか、余りこのショウについての記憶がない。

Strangers in the Night (2010)

シンガー兼プロデューサーにドイツ人の Michael Voss (フォス) を迎えてお遊び半分くらいで作ったであろう曲。彼は現在に至るまでマイケルと行動を共にしている。

が、正直に言って Voss のことは好きにはなれない。

Michael Schenker’s Temple of Rock (2011)

元 SCORPIONS で同郷人の Herman Rarebell や、ここから MSG と活動を共にしていく元 RAINBOW, Yngwie Malmsteen の Doogie White を始めとした色々なメンバーが参加して制作された。

マイケルは日本人の奥さんによる管理・支えがあって体調も良く体格もすっかり往年のロックスター然としたものに戻って、順風満帆と言える活動を続けていた。

しかしながらピートは依然として健康状態に不安を抱えており、それどころかこの頃からベースプレイも覚束なくなってくる。時折マイケルのライヴショウにはゲストとして顔を見せるのだが、以前は毎晩のようにプレイしていた技術的に難易度の低い曲すらもたどたどしく弾いているのが確認できる。

↑は2010年の MSG のライヴショウで、なんと Paul Raymond も飛び入り参加している。マイケルは一時期ポールのことを「アイツはいつも陰湿な奴だった」とまで罵っていたのに。まあ、仲直りできるのは良い事。

ピートは曲の導入部の弾き方をどうも忘れているようだ。この曲の後半ではこれさえも弾けなくなっている様子が確認出来る。長い闘病生活の影響と見て取れる。

A Fast Ride Out of Here:
Confessions of Rock’s Most Dangerous Man

2017年に発刊されたこの書は、ロックンロールライフを駆け抜けた男の「告白」である。幼少時代から UFO の始動、バンドの成功、ロックンローラーの生活、新たなバンド開始に至る道筋と苦難など、およそ“普通の”生活をしている我々には垣間見ることさえ出来ない、彼の波乱に満ちた人生が綴られている。

特に昔のロッカーは、現代の“音楽家”となったロックプレイヤーたちにとっては信じられないくらい無茶苦茶な生活を送っていたという。

Kindle 版を購入したものの、恥ずかしながら未だに全部を読んでいない。これを機に時間を見つけて読破しようと思う。

ちなみに、タイトルの “A fast ride out of here” というのは UFO の Force It アルバムに収録の “Shoot Shoot” の歌詞から引用されているもの。“I’ve really got to get a fast ride of here. Gotta get a fast ride out of here, gotta get a fast ride out of here, gotta get a fast ride out of here now”.

意訳すると「早えーとこ、こっからズラからないと(ヤベえ)」的な感じだろうか。gotta は got to の口語での短縮形。

 

この書籍は現在も以下で購入出来ます。

Amazon

楽天

そして晩年

Pete Way Band (2019)

どうやら病気を克服したピートは再び自身のバンドを立ち上げる。非常にシンプルな名前だ。羽ばたく翼をロゴにしたのは、ロッカーとしての晩年にもう一度空を駆け巡るが如くステージでロックしたいとの思いの表れなのだろう。

ここでのピートはステージでベースを弾くことはなかった。ベースを持っていても、見栄えのためだけでそれを実際には弾いていない。やはり長年の闘病生活で楽器を弾くことが難しくなったのだと推察する。代わりにリードヴォーカリストとしてバンドを牽引することに。

演奏されるのは過去に自らが関わった曲。その中でも特に“ロックンロール色”の強いモノが多い。やはりピートの背景というのは The Rolling Stones のような伝統的なロックやパンクのような“無頼漢”的なものだと再確認できる。

見るところ、ギターに Laurence Archer, ドラムスに Clive Edwards という UFO の High Stakes & Dangerous Men 期のラインナップ。彼らは以前に “X-UFO” というバンド名で Danny Peyronell 主導の下で活動を行なっていた時期があった。意味は「元 UFO」ということ。

Phil Mogg との再会

どこかに、2019年にピートがフィルと再会して一緒に撮影した写真があったはずばってん、どこを見ても見付けきれない。おそらくこれが彼らにとって今生の別れになったかと。

Friday 14th August 2020

上記の公式サイトで告知されている通り、Pete Way は2020年8月14日金曜日16時34分に永眠。2ヶ月前に起こった事故での致命傷が原因で亡くなったという。どういった事故かは明らかになっていない。彼の69歳の誕生日から一週間後のことだった。

彼の死を悼む多くのミュージシャンがメッセージを寄せた。

The news none of us ever wanted to hear.
R.I.P. Pete.

UFOさんの投稿 2020年8月14日金曜日

 

そして俺はこれを書き綴ってピートに捧げようと思った。これまでに書いたブログで最も長いものになった。中には間違いもあるかもしれんばってん、そこはピートに免じて大目に見てもらえればと思います。

Thank you so much Pete Way for showing us how to Rock ‘n’ Roll!!

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