60年代に人気絶頂を誇った歌姫、弘田三枝子さんが亡くなった。
俺自身は弘田さんに何か思い入れがあるわけでもなかし、何か好きな歌があるわけでもなかばってん、弘田さんと言えば俺の人生に大きく関わることが一つある。
Kさん大特集
弘田さんの元夫で異色の経歴
俺が通訳案内士になるきっかけを作ってくれた人が、弘田さんの元夫なのだった。彼がいなかったら間違いなく今の俺は五家荘におらんし、通訳案内士になることもなかった。彼に出会ったのは2010年、俺が五家荘に移住する前の話。
当時の俺は地元の観光協会的な団体に“緊急雇用対策”で雇用され、五家荘での体験型観光の普及が業務だった。勤務2年目のある日「橋崎くん、あんた英語が喋れたろ?五家荘に外国人のお客さんが来とるけん、案内ばしてくれんか?」との電話が入り、21歳のスイス人の青年1人を案内したのだった。
※余談だが、2017年になって上記の青年と同じ苗字のお客さんをガイドした。気になって訊ねてみたら、偶然にもこの青年の実の兄だった! 俺のことを聞いたわけでもなく、本当に偶々俺にガイドを申し込んだとのこと。そしてそのガイド中にヴィディオチャットを通して、スイスにいる↑の彼と久々の再会を果たしたのだった。 |
これがきっかけとなり、熊本県の外国人観光客誘致事業の八代での業務に部分的ながら加わるようになった。そこへ来たのが、この事業を請けて実務を行なっていたKさんだった。
Kさんは八代生まれの八代育ちだがアメリカ人という面白い経歴の人で、もちろん英語はペラペラ。彼が連れてくるオーストラリアやドイツの旅行会社・代理店等の人たちに五家荘を紹介する業務に帯同させてもらって、そこで生きた英語を学ぶ機会を得た。その過程で俺自身が英語で五家荘を紹介するようになってきた。
そしていよいよ通訳案内士として独立するときに、ドイツの旅行会社との仕事を譲ってもらった。のれん分けみたいな感じだったですね。これがあったから、初年度の仕事はどうにかなったのである。
その後も、熊本県・八代市の外国人観光客誘致事業には帯同することがあります。今年は残念ながら新型コロナ影響ですべてキャンセルになってしまいましたが。ということは、今年は直接会うとらんな、今のところは。
Kさんの経歴は波乱万丈で、このタイミングだったら番組一つ作れるかもしれんw 差し当たりのない範囲で紹介していきたい。
高校を中退
Kさんの母校は地元の高校、というか俺の大先輩だった。しかしKさん曰く、余りにも手の付けられない悪ガキだったために追い出されたとか。「球磨川の河童伝説は、俺が球磨川で泳いでるときにイタズラしていたのが元になってるかもなw」と笑いながら言っていた。今でも悪ガキの面影が残る。
※注 八代には「河童渡来伝説」があり、中国から9,000匹の河童(九千坊)が日本に初めて上陸した地点が「徳渕の津」と伝えられている。その河童(やつしろでは「がらっぱ」とも)達が川で泳ぐ人たちの尻に手を突っ込んで尻子玉を取るという悪事を働いていた。その悪事はKさんのイタズラが元になっているのでは、という冗談 |
16歳で高校を辞めて、渡米。全く脈絡がないように聞こえるのだが、どうやら母親が先にアメリカで暮らしていたらしい。そこを頼ってNYへということだろう。
軍人時代
20歳くらいのときにヴィェトナム戦争に参加。うん、これも脈絡がない。曰く「英語がまだよく分かんなくて、テキトーに列に並んだら、そこが世界で一番厳しいと言われるアメリカ海兵隊だったよw」映画 Full metal jacket は正にあの時代を切り取って描かれているとのことを言っていた。
当時、日本生まれ・日本育ちの日本人がアメリカの軍隊に入って戦争に参加するなんていうのは非常に稀なことだったと思う(もしかしたら、唯一だったのかも)。現地で実際に戦闘を経験し、敵からの攻撃を受けたこともあるそうだ。その際の“戦果”についてはKさんが喋ることはなかったし、俺も訊かなかった。
↑これだけモザイクを掛けないと、Google画像検索で引っかかってしまうので致し方ない
Kさんがアメリカに帰国できたのは、自陣で爆発物が誤って暴発したのが原因だったか敵の急襲だったかで腕に大けがを負ったため。この時の戦友↑は後に来日し、Kさんと共に米軍ゆかりの地を回ったり観光を楽しんだ模様(ヴィェトナム訪問を含む)は紀行文として彼のウェブサイトで公開された。俺もその旅の一部に加わった。
アメリカでの勤務と結婚生活
↓の情報は、下記サイト他で得た情報です。
それから某大手航空会社に勤務し、営業部長として全米でも指折りの成績を挙げていたとか。この時に不倫騒動を起こして一時芸能界から身を躱してアメリカに滞在していた弘田さんと知り合い、Kさんから求婚して結婚したそうです。
※↓の動画は特にこの投稿と関係ありませんが、最近俺がYouTubeで見ることの多いチャンネルです
しかしながら、じつはこの時Kさんは婚姻状態にありました。しかも、4人目の妻とその間に出来た子供もあり。4人目!?そう、Kさんはいわゆるプレイボーイだったそうです。結果として計7回の結婚と9人の子供を残したとのこと。七転び九起きですか。
これは俺の推測ですが、Kさんは日本とアメリカの両方の国籍を持っていて、弘田さんとはそのどちらかの結婚していない国籍を元に婚姻届を提出したのではないかと。知らんけど。
しかしながらこの結婚は長くは続かずに、弘田さんが日本に帰国する前に離婚したとのこと。今回のニュースで弘田さんの姓の表記を見て、これらの話が真実であったと理解するに至った。
色々な事業を始める
大手航空会社を辞めた後、1982年に豪州政府観光局で上級スタッフとして勤務を始め、当時の豪州での日本人向けのインバウンドは年間45,000人足らずだったのだが、そこで成果を残したという話。エアーズロック(ウルルー)を観光地にしたのは俺だ、と言ってました。本当かどうかは分からん。
そして遂に日本に帰って東京で旅行関係の会社を立ち上げる。それからしばらくはその事業を続ける中で、インドネシア政府相手の仕事で数千万円を詐取されたこともあったそうで「インドネシア人とは絶対に仕事しないよ!政府でも信用出来ないなんて、とんでもない奴らだよ!」と憤慨してましたw
その旅行会社を手じまいし、日本各地のインバウンド誘致事業を請け負うようになっていくつかの成功例を残す。代表的なのが瀬戸内地方のとある島で、ネット上のどっかに映像も残っとるかもしれんです。
そして遂に生まれ故郷の八代のインバウンド誘致事業を取り扱い、その中で観光の魅力を教わった俺は通訳ガイドになることを目指す。市場が拡大し、新人通訳ガイドでも商売になるタイミングが来たっちゅうことですね。
病気との闘い
Kさんは精力的に豪・欧・米を回って誘致事業をしていましたが、ある時それまでの無理がたたったのか、体を壊して入院。退院は出来たものの、すっかり痩せてしまい杖をつかないと歩けない体になってしまいました。
高血圧・糖尿・リュウマチに一辺に蝕まれ、その悲壮な姿に「ああ、これはもうこの人は長くはもたんな」と思ったのは俺だけではなかったですよ。まあ、それでも五家荘に来て誘致事業ばしよったという。さすがは元軍人なだけはあると感心した。
それからKさんはしばらく治療に専念した。天草での湯治、そしてアメリカに帰っての治療。なぜわざわざアメリカかというと、退役軍人の医療費は無料なのだそう。さすが世界の警察だけあって、その現場を担う兵士は引退後も厚遇されている。
そしてアメリカの薬は日本のものより効き目が強いとのこと。「日本のは薬効を弱くしてあるから、ちっとも効かないんだよ」と言いながら、毎日7種類の薬を飲んでいた。虹か。
しかしながら、そこで病院にまで銃を携行する退役軍人の姿を見て、”What a crazy country!” と実感し、このような国で死ぬわけにはいかないと誓って日本に引き上げてきたそうです。それまではNYに住所があったのが、正式に日本人として日本に帰国。
八代でのアパート探しも手伝いましたが、成約には至らず。結局現在は八代から遠く離れた場所で暮らしています。新しい彼女さんと。60代後半(=当時。現在は73歳くらい)になっても、まだ女性との関係を続けていこうという姿勢には感銘を受けました。ロックだろ、このオッサン。
で、その彼女さんと結婚するのかと訊いてみたところ、あんたの8人目になるのはイヤという理由で断られたというw
で、今は治療の甲斐あってピンピンしてますw 禁止されていた酒も、少しだったら飲めるようになったそう。五家荘で宿泊するときは、必ず「かっぽ酒」ば飲みよらす。あの見るからに死にそうだった人間がここまで回復するとは。
頑張って仕事を続ける大きな理由に、まだ未成年の娘がオーストラリアに二人おり、彼女らが成人するまでは面倒をみてやる必要があるというものだった。えー?ちゅうことは、50代でも更に結婚して子作りしよったわけか…。
やはり元軍人で米大手航空会社で抜群の成績を残し、複数の業界で数々の成果を挙げてきてかつプレイボーイであるこの人は、尋常ではない生命力によって支えられていたのだろう。身長160cm位のちっさいオッチャンのどこに、このような力があるのかは今でも謎ではあるが。